さて、次は4番大久保嘉人。4番っていいよね。DFの番号っぽいけど大久保嘉人らしい。同い年の井川祐輔のあとを引き継いだのと、13番が三好康児の番号だから、1+3=4っていう選び方も大久保嘉人らしくて素敵です。
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大久保嘉人の髪型の現在の画像が話題になっていましたね
Twitterで報告していましたが、髪型変えた大久保。髪型変えただけでニュースになっていたりと、その知名度はやっぱり抜群です。
朝から音楽が流れてて「あれっ!これ誰の歌やったっけ?」碧人が「あみえ!」えっ?なんか聞いたことある名前けど誰?って聞いたら「あふろあみえだよ」って!あ〜安室奈美恵ねっで笑って終わりました!笑
って事で同級生に髪の毛をノリでクルクルにしました!笑
笑って下さい。 pic.twitter.com/3ckeJNghLo— 大久保嘉人 (@Okubonbon13) 2018年2月4日
あふろあみえwww
誰だよwww
まぁ坊主の時は奥様の流産からの胞状奇胎が発覚し、術後の経過が順調ではなく、入院治療が必要ということで…奇胎後hCG存続症と診断され、抗ガン剤治療が必要となって髪の毛が抜けてしまうかもしれない奥様のために、家族全員で坊主に…ってことで本当に男らしい素敵な旦那さんだなーと感心していましたが、今回のおばちゃんみたいなパーマはただ知名度が高いからいじられている感じですね(笑)。
まぁ、大阪のおばちゃんパーマでも点取ってくれたら文句ないから!
奥様のために髪型を坊主にしたのはもう3年前ぐらいだっけ?
あの時もだし、はじめてのおつかいのときもだけど、大久保嘉人は本当にいい家庭築いているんだろうなーって思っています。憲剛の奥様との関係と言い、小林悠のところと言い、家長のところと言い…みんな幸せそうでいいですよね。
大久保嘉人はなぜ移籍した?その移籍理由
FC東京への移籍、川崎フロンターレへの移籍…両方で話題になっているのが大久保嘉人のエースたる由縁ですかねぇ。有名な選手だからこそ報道が過激になるのは仕方ないし、活躍しなければたたかれるのはプロサッカー選手としての宿命であるともいえます。
1年での出戻りとなったFC東京から川崎フロンターレへの完全移籍。その理由は「やっぱり好きなんだなと感じた」と明かし、「いた時にはそこまでわからなかったけど、見ていてどこからでも点が取れる」という点が特に魅力的に感じたと話していました。
批判されることに対しても「もちろん批判されるでしょう」と理解したうえで、「でも関係ないですから。批判する人たちが俺の代わりにやってくれるのならいいですけど、やるのは俺だから。サッカー人生の17年間、ほぼ批判されていますからね」と笑っていえる精神力は本当に叩かれても結果出してきた選手だから言えることですよね。
FC東京へ移籍した時も実際理解されにくい移籍だったし、それでも新しいチームで「チャレンジしたい」と移籍し、その後「やっぱりフロンターレが好き」と帰ってくるのは…フロサポ的にはうれしい限りだけど、FC東京サポーターにとっては悔しいだろうなぁ。
「最高の環境を捨ててでもチャレンジしたい」と言って出ていって、「最高の環境」に戻ってくるんだから…と年俸のマイナスも受け入れ、さらに得点にこだわらず、「下がって組み立てる」ということにも言及しています。
何が何でも俺が俺がとならずに打てるときは打ち、中盤とFWを繋ぐときは繋ぎ…とその高い能力で川崎フロンターレの新たなサッカーを作り上げてくれるはず。
小林悠が独り立ちして、知念慶がいて、阿部浩之も、家長昭博も、長谷川竜也も、誰が点を取ってもいい状況になったからには、大久保嘉人が点を取らなくても余裕で勝てる…そんな最強のチームが出来上がりそうでワクワクしますよね。
大久保嘉人のプロフィール
今更プロフィールをw
大久保嘉人のプロフィールってあんまり見ないんで新鮮。
大久保嘉人(おおくぼ よしと)
1982年6月9日生まれ。
福岡県京都郡苅田町出身。
ポジションは主にフォワード(FW)だけど、前のポジションならトップ下でも、右でも左でもどちらでも行ける。
史上初の3年連続Jリーグ得点王(2013年 – 2015年)で、J1通算最多得点記録保持者(179得点)。
書けることありすぎるので抜粋ですが…
小学校3年時に苅田サッカースポーツ少年団に入団。当初はストッパーでしたが、小学校6年時よりFWへ。
1992年度の高校サッカー選手権を制した長崎県立国見高校に憧れて、小学校卒業後に長崎県へ渡って国見町立国見中学校に入学。
長崎県立国見高等学校サッカー部総監督であった小嶺忠敏が中高一貫でサッカーの指導をするために作った「小嶺アカデミースクール」に入団。 ここのコーチの娘さんがのちの奥様なんですよね。その時、国見高校にあこがれてよかったですよね(笑)
国見中学校では2、3年とも全国大会ベスト8に入り、U-15長崎県選抜チームに選出。1998年、国見高校に進学。2年生でレギュラーを獲得し、3年時の2000年、松橋章太らとともにインターハイ、国体、選手権を優勝し、高校三冠を達成。
卒業後は複数のクラブの争奪戦がありましたが、小嶺監督の勧め(セレッソ大阪か、アビスパ福岡にしろって言われていたらしい)もあり、セレッソ大阪へ。
その後活躍は…ざっくりと書くと…
セレッソ大阪ではJ1もJ2も経験しつつ、アテネオリンピックへ出場。
アテネの後、スペインリーガエスパニョーラのRCDマヨルカへレンタルされると、1部残留に貢献。UEFA選出スペインリーグ・若手ベストイレブンを受賞。
セレッソに戻ったものの再度J2降格を経験。
ヴィッセル神戸へ完全移籍。チーム事情もあり左MFを経験。
マガト監督の強い希望でブンデスリーガのVfLヴォルフスブルクへ移籍。ベンチ外も経験しましたが、その時の経験が大久保を成長させたといっていましたよね。
「試合に出れなくて、まぁ、いいや、って思ったら、もう終わり」
「サッカー選手をやっている以上は、出たい、出たい、って感じで練習もするやん」
とこの時のことを振り返っていました。
ヴィッセル神戸へ戻ると南アフリカワールドカップメンバーに選出。左サイドハーフで予選全試合に先発出場し、予選突破に貢献。
ヴィッセル神戸でもJ2降格が決まると、残留するつもりだったものの、最初の契約交渉時に態度を保留した際、慰留は無く、移籍を勧められたため川崎フロンターレへの移籍を決意。
それから川崎フロンターレでの活躍は…簡単に。
3年連続得点王。2大会連続ワールドカップ出場。4年目も日本人最多得点。J1リーグ最多得点更新などなど…得点とることだけに集中して、中村憲剛というパサーと組んだことで一気に才能を爆発させました。
そしてFC東京での1年のプレーの後、川崎フロンターレへ復帰。今に至ります。
通算成績としては…J1では400試合179得点。J129試合18得点。リーガエスパニョーラ39試合5得点、ブンデスリーガ9試合無得点。
Jリーガーの中でもトップクラスの選手なのは間違いありませんね。
大久保嘉人のプレースタイルと性格
今更ですが、プレースタイルと性格をまとめます。
川崎フロンターレサポーターだけじゃなくいろんな人がこのブログを読みに来てくれているみたいですので…大久保嘉人って誤解されやすいけどいい人なんだよ、っていうのが伝わればいいなぁと。
大久保嘉人のプレースタイルは…ドリブル、パス、シュートがすべて高いレベルです。さらに受け手としての動き出しはJリーグでもトップクラスだと思いますし、スタミナも多い選手。頭もいいし、サッカーを知っているし、身長は低いけどジャンプ力あるし、当たり負けはしないし…とおよそ欠点らしい欠点がない選手。
まぁそうじゃなかったらJリーグ最多ゴール記録の選手になんかなれないんですけどね。
最初の川崎フロンターレ時代には風間八宏監督に「どこ(のポジション)をやっても一番うまい」と言われ、FC東京時代に安間貴義時代にはシャドーとしてプレーが増え、その理由は「ラストパスを出せるのが嘉人しかいない」と言われるなど、本当にどこでも高いレベルでできる、天才の一人です。
プレーの最中にどうしても熱くなり、短気で、試合中に悔しいとカッとなると自分でもわかっていて、強気な言動でも知られます。闘争心の現れによる無用な警告・退場も多かったんですが、川崎移籍後は役割が得点に特化されたことにより、無駄なファールやスタミナの消耗も減って本領を発揮してカードもほとんどもらわなくなりました。
ピッチ外では奥様を大事にする、シャイな性格で、世間の印象とは本当に真逆。チーム事情を考えて、友達やチームメイト、家族を心から大事にして、自分からは前に出ないというもの静かな人。さらに、記者や世間が、大久保の発言のあげ足を取って、悪く書いても苦笑いで済ませるし、ノボリや森谷といった若手にいじられても、ニコニコしているのはどのチームでもそうだったらしいです。
どのチームでもいじられキャラみたいですが、特に神戸と川崎では若手に結構いじられたって言いますね。チームの雰囲気がそうなのかな?
以上、大久保嘉人についてのまとめでした!